19世紀のブラジル

1808年、ポルトガル宮廷がナポレオンから逃れ、リスボンからリオ・デ・ジャネイロに遷都。
1810年、イギリスと通商条約締結。
1821年、ジョアン6世の宮廷リスボンに帰還。
1822年、在ブラジルのポルトガル皇太子が独立を宣言。皇帝ペドロ1世を称す。
1824年、最初のブラジル憲法公布。
1825年、アルゼンチンとの戦争(-28年)
1831年、ペドロ1世退位、ペドロ2世が即位。
1835年-1845年、共和派の反乱「ファホウピーリャ革命(War of Tatters)」
1840年、ペドロ2世親政開始。
1850年、奴隷貿易停止。
1865年-1870年、三国同盟戦争(パラグアイ戦争)
1888年、奴隷制廃止。
1889年、軍事クーデターにより帝政打倒、ペドロ2世亡命。

エイトール・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa-Lobos 1887-1959)が生まれた1887年は、ブラジルに大きな変革が起きようとしている年でした。 翌年には奴隷が完全解放され、それが要因の一つとなり、1889年に帝政が崩壊。ブラジルは連邦共和制へ移行しますが、 議会と軍部の共同運営政権はとても不安定なものでした。



この時期、戸籍制度が確立していなかった為、エイトールの生年月日についても、 彼の母親でさえ、しばしば間違えたほど正確なことはわかっていませんでした。
しかし、1947年ブラジルの音楽学者、バスコ・マリス(Vasco Mariz)が、 リオデジャネイロの教会に保管されていた洗礼記録から「1887年3月5日」を正式な生年月日であることを発見し、 以後、公的な文献にはそう記されるようになりました。


エイトール・ヴィラ=ロボス Heitor Villa-Lobos(1887-1959)

1887年、3月5日。エイトール・ヴィラ=ロボスはリオデジャネイロで生まれました。 ブラジルが生んだ南米最高の作曲家エイトールが音楽の道に進むことになった要因には、 彼の父、ラウル・ヴィラ=ロボス(Raul Villa-Lobos)の影響が多大にあったとされています。


(若き日のエイトール)

ラウルは、あまり裕福な家庭の出身ではありませんでしたが、家族の友人の一人の音楽教師に気に入られチェロを学んでいました。 しかし音楽を生業にすることは諦め医学の道を目指しますが、学費の工面ができずに学業を断念。 エイトールが生まれた頃は学校の教師でした。
一方、母のノエミア(Noêmia Villa-Lobos)も、家庭はあまり裕福ではなく、幼い頃に母と死別して叔母に育てられていました。 この2人の両親の間には8人の子供がいて、エイトールは父親の一番のお気に入りの子供でした。

1890年、父ラウルが国立図書館の従業員の職を得ます。
1892年、古書のコレクションが趣味だったラウルは、勤務中に図書館の蔵書を盗んだという嫌疑をかけられ図書館を解雇。 また、当時の政府を批判する論説を新聞に発表していた事もあり、逮捕を逃れて約1年あまり各地を転々とします。
1893年、ラウルの友人達の協力により窃盗の嫌疑がはれ、国立図書館に復職。

エイトールの少年時代、チェロやクラリネットを演奏できた音楽好きのラウルは、 毎週土曜日になるとリオデジャネイロの自宅で音楽パーティを開き、夜遅くまで仲間達と共に演奏に興じるのが習慣になっており、 この出来事が幼いエイトールに強い印象を与えます。

そんなパーティで自然に音楽に親しみ始めたエイトールは、父の目を盗んでギターを覚え街の音楽家達と交流を持つようになります。 しかし家族、特に母親のノエミアは「ギター等という下々の楽器など弾かないで欲しい」と、あまり良く思ってはいなかったようです。

一方、エイトールが音楽に興味があることを知った父ラウルは、体の小さな彼にビオラをチェロの代わりにして教えます。 しかし少年エイトールは大人しくチェロの練習をする優等生ではなく、悪戯好きで落ち着きがない子供だったようで、 時折、手を焼いた父親は、彼を椅子に縛りつけて仕事にでかけることもありましたが、 そんな時は決まって、心優しい母親に紐をといてもらっていました。 そして一日中遊んだ後、父親が帰ってくる時刻が近づくと、また母親に椅子に縛りつけてもらうことを忘れない子供でした。


(父:ラウル・ヴィラ=ロボス)

まだ10才にもならない頃、エイトールは叔母の一人が弾くバッハの『平均律クラヴィーア曲集』に深く魅了され、 以来、バッハを敬愛し続けます。そしてその想いは、1930年からシリーズで書かれた全9曲の『ブラジル風バッハ』へと引き継がれていきます。

1899年、エイトールが12才の時、一家の大黒柱、父親のラウルがマラリアで亡くなり、 彼の家族は最大の試練を迎えることになります。


ショーロについて

「ショーロ」は、19世紀中盤に確立した音楽ジャンルの一つで、 イギリス、フランス、ポルトガルなど、ヨーロッパに見られる「舞曲」の影響を受けつつも、 ブラジル国内に送り込まれたアフリカ黒人奴隷の躍動的リズムが混ざっているのが特徴。 ポルトガル語の『ショラール』=「涙」「泣く」という意味の言葉が語源になっており、 メランコリックな曲調と、一転してアクロバティックな速い曲調に分かれています。 北米大陸で生まれた「ジャズ」と兄弟のような存在で、ジャズと同様、即興~アドリブ演奏を主としたポピュラー音楽です。

ギター曲ではエイトール・ヴィラ=ロボスの『ショーロ第1番』、 ホワン・ベルナンブコ(João Pernambuco 1883-1947)の『鐘の音』や アグスティン・バリオス=マンゴレ(Agustín Barrios Mangoré 1885-1944)の『郷愁のショーロ』なども有名です。



ショーロの代表的な音楽家、アルフレッド・ダ・ロカ・ビアンナ・ジュニア(Alfredo da Rocha Vianna Jr.)、 通称ピシンギーニャ(Pixinguinha 1897-1973)は、「ブラジル・ポピュラー音楽の父」「ショーロの完成者」と評される人物で、 1919年、オス・オイト・バトゥータスを結成、1922年に約半年間ヨーロッパに渡り、パリを中心に演奏活動を行っています。

一方、エイトールは1924年にパリでアンドレス・セゴビアと出会っていることから、 ピシンギーニャとエイトールは、ほぼ同時期にパリで活動していることになります。
この様にエイトールの場合、その背景となっている音楽は、民族音楽、伝統音楽、古典芸能として固定化され、 保存、研究されている種類の音楽ではなく、彼と同時代のブラジルで流行していたポピュラー音楽の人気ジャンルその物でした。