エイトールとショーロス
母のノエミアは喫茶店で働きながらエイトールに医者の為の勉強を薦めますが、
元々、勉強嫌いの彼には向きませんでした。次にノエミアは食料品会社の仕事を見つけてくるのですが、これも長続きしません。
一家は困窮を極め、父が苦労して集めた歴史学的に貴重な蔵書までも売って生活するようになります。
1903年、16才の頃、夜のリオ・デ・ジャネイロの街角に現れるショーロ(Choro)を演奏しながら放浪する一団「ショーロス」(Choraoes)と遭遇し、
彼らから歌やダンスを習いながら、毎日を過ごすようになります。
(エルネスト・ジュリオ・ジ・ナザレ:左 シキーニャ・ゴンザーガ:右)
この頃、エイトールと交流のあった音楽家達の中には、
後年、ブラジルの音楽界に彗星のごとく登場するエルネスト・ジュリオ・ジ・ナザレ(Ernesto Julio de Nazare 1863-1934)や、
詩人であり、作曲家、女流ピアニスト、そしてブラジルの奴隷解放運動の活動家でもあった
シキーニャ・ゴンザーガ(Francisca Chiquinha Hedwiges Gonzaga 1847-1935)などがいました。
このうちエイトールが最も影響を受けたのはナザレで、後年、エイトールが作曲した『Choros No.1』は、このナザレに捧げられており、
『Choros No.8』の曲中には、ナザレの「Tango Turuna」のフレーズが用いられています。
またシキーニャは、後年、波瀾万丈の生涯をおくり国民的有名人になった人物で、
1999年にはブラジルで彼女の半生を映像化したTVドラマ『シキーニャ・ゴンザーガ』が放映、
DVD作品として商品化されたりもしています。
1905年-1912年、若きエイトールは、彼ら「ショーロス」達とブラジル各地に旅に出ます。
この旅は、ブラジルの奥地にまで踏み行った冒険的なものだったようで、
彼はコーヒーショップやダンスホールなどでチェロを弾き、わずかながらも収入を得ることができるようになりましたが、
リハーサルや本番そのものをすっぽかすことが度々あり、経済状況はかなり不安定で、
楽団と分かれた後は生活の為にマッチ工場で働いたという記録もあります。
このブラジル放浪時代、彼は作曲技術について本格的に学ぼうとしたことがあり、
1906年~1907年頃、作曲理論を学ぶために国立音楽研究所に入学しようとしましたが、
試験の成績が悪かったことと、純古典音楽には溶け込めない個性が育ち始めていた為、入学を諦めています。
(アグネロ・フランカ教授)
しかし、アグネロ・フランカ(Agnello Franca)教授は、彼の個性と才能を惜しみ、
聴講生として彼を受け入れたのですが、次第に授業に出なくなってしまいます。
そして、その3、4年後、エイトールは再びフランカ教授の門をたたき、個人レッスンを受講しますが、これも長続きせず、
結局、独学という道を歩むことになります。
1912年、ある知人の紹介でギター演奏を依頼されたエイトールは、訪問先の家でルシリア・グイマラス(Lucilia Guimaraes 1886-1966)という女性と知り合います。ルシリアは、当時、国立音楽研究所を卒業する頃で、すでにピアノやソルフェージュを教えていました。しかし彼女の周囲には、庶民の楽器であるギターを即興で演奏し、更に上手にチェロを弾く青年はいなかった為、このエイトールに興味を持ち、彼とピアノとチェロでアンサンブルをするようになります。
(ルシリア・グイマラス)
この二人のアンサンブルは、エイトールが口ずさんだりチェロで即興で弾いたメロディをルシリアがピアノでなぞるというものでしたが、
この二重奏を通じて、次第にピアノに興味を持つようになった彼は、ピアノ曲の作曲を試みるのですが、
その多くは演奏不能のもので、音楽教育を充分に受けていない彼の弱点が露呈されてしまうことになります。
そんな彼にとって、ルシリアは音楽上の良き相談相手でした。
1913年、リオデジャネイロに住みながら、いくつかの宗教音楽、交響楽、室内楽を作曲。
1913年11月12日、ルシリアと結婚。
1912年-1923年、ギターの為の『ブラジル風民謡組曲』(Popular Brezilienne)を作曲。