テデスコ Mario Castelnuovo-Tedesco (1895-1968)

マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(Mario Castelnuovo-Tedesco)はイタリアを代表する作曲家、 ピアニスト、作家。セゴビアとの出会いから数多くのギター曲を残しています。 また映画音楽の分野でも活躍し、多くの後輩音楽家達に影響を与えました。



1895年、フィレンツェのイタリア系ユダヤ人銀行家の家に生まれます。母親からピアノを習ううち、わずか9歳で最初のピアノ曲を作曲。
1909年、フィレンツェの音楽院で本格的に音楽の勉強を始めます。
1914年、音楽院のピアノ科の学位を修了。その後、作曲科に転入すると、 国民音楽協会の設立者であるイルデブランド・ピツェッティ(Ildebrando Pizzetti 1880-1968)に師事。

1918年、音楽院卒業後、ピツェッティと同じ国民音楽協会の設立者の一人であり、 イタリアの作曲家兼ピアニストのアルフレード・カッセラ(Alfredo Casella 1883-1947)の上演プログラムに組み入れられるほど認められるようになり、 新イタリア音楽(Nuovo Musica Italiana〉の作曲家として音楽界の期待を受けます。

ギター音楽で有名なテデスコですが、伝統的なオペラや純器楽曲も数多く残しており、その作品番号も200を越えるほどの多作家でした。 第1次世界大戦後、彼の初期の作品は、イタリアをはじめとするヨーロッパ全土で数多く上演されましたが、 特にトスカニーニ(Arturo Toscanini 1867-1957)の指揮するニューヨークフィルハーモニーは最も多く初演しています。

1932年、国際現代音楽協会主催のヴェネツィア音楽祭で、ギター界の巨匠アンドレス・セゴビア(Andrés Segovia 1893-1987)と知り合い、 彼の奏でるギターから、この楽器の作曲法を即座に理解し、彼の求めに応じ、同年、『世紀にわたる変奏曲』を作曲。 以来、セゴビアは、テデスコに対し絶大なる信頼をよせることになります。

彼は、現代風のクラシック音楽を魅力には感じておらず、 特に自叙伝の中で述べている~マヌエル・デ・ファリャの彼に対するアドバイス~を重視していた傾向が見られます。 それは、当時、多くの20世紀の作曲家の間に流行していた、非常に分析的・理論的なスタイルを拒絶することであり、 彼の音楽は同時代の高級芸術の主流からは、ますます隔離されていくことになります。

また、この時期から約10年間、イタリアではファシズム政党が政権につき、音楽は国家管理のもとに制御、統制され、 重要な制作の一つである~ユダヤ人への迫害がしだいに強まり始め、 ユダヤ人音楽家のラジオ放送への出演や一般公演などが次々とキャンセルされた頃でもあります。

1933年、ハイフェッツ(Jascha Heifetz 1901-1987)のヴァイオリンで『ヴァイオリン協奏曲第2番~預言者たち』が初演。
1935年、早くも、ギター独奏の名曲『ソナタ~ボッケリーニ讃』を世に送り出しています。
1935年、ピアティゴルスキー(Gregor Piatigorsky 1903-1976)のチェロ、 トスカニーニの指揮のもとで『チェロ協奏曲』が初演。

1938年、ムッソリーニの打ち出した反ユダヤ主義による迫害を逃れ、ちょうど、ドイツがポーランドへの侵攻を開始し、 第2次世界大戦が勃発する直前に、ハイフェッツとトスカニーニの両方の援助を受けながらアメリカへと移住して帰化。 ビバリーヒルズに定住することになります。
この渡米直前、フィレンツェにあるテデスコの自宅に来訪したセゴビアから~ギターと管弦楽のための協奏曲~を求められたテデスコは、 セゴビアの監督下で第1楽章を仕上げ、残りの楽章を後日セゴビアに送っています。

1939年、『ギター協奏曲 ニ長調 作品99』を発表。 同年、ホアキン・ロドリーゴ(Joaquín Rodrigo Vidre 1901-1999)が『アランフェス協奏曲』を発表しており、 この2つの協奏曲はクラシックギターにとっての新時代の幕を開ける役割を果たしました。

この様に、ギター作品でも有名なテデスコですが、伝統的なオペラや純器楽曲も数多く残しており、その作品番号も200を越えています。 彼の音楽は、現代音楽に見られる前衛的な難解さは見られず、 多様な民族音楽からの影響を感じさせる魅力的なメロディーが特徴となっています。



1940年、渡米して間もないテデスコは、ハイフェッツらの紹介により、当時のアメリカにあって最も有名な映画制作会社の一つ、 MGM映画撮影所(the Metro-Goldwyn-Mayer film studio)と契約を交わしました。 その後、1956年までの約15年間にわたり、CBS、コロンビア、ユニバーサル、ワーナーブラザーズ、20世紀フォックスなど、 様々な映画会社のスコア管理の仕事を継続し、およそ200本以上の映画音楽を提供し続けることになります。

彼が手がけた主な映画音楽には~
『名犬ラッシー』(Lassie Come Home 1943年)
『ガス燈』(Gaslight 1944年)、
『カルメン』(The Loves of Carmen 1948年)などがあり、映画の他には、
『スーパーマン』(1948年)、
『バットマンとロビン』(1949年)などのTVドラマの楽曲もありました。

1946年以降、テデスコは、ロサンゼルス音楽院で教鞭を取っていますが、 彼の弟子には、彼と出会う前後、共に仕事に携わった音楽家が多く、
ヘンリー・マンシーニ (Henry Mancini 1924-1994)
ジェリー・ゴールドスミス (Jerry Goldsmith 1929-2004)
アンドレ・プレヴィン (André Previn 1929-)
ジョン・ウィリアムス (John Williams 1932-)
ニーノ・ロータ (Nino Rota-Rinaldi 1911-1979)など、
後年、映画音楽界の大御所へと成長する若者達が勢ぞろいしていました。

一般に彼の音楽のアプローチは、抽象概念と作曲の技法によって成されるのではなく、より文学的であり、視覚的なものが彼のインスピレーションの源流になっており、シェクスピアの原作で有名な『真夏の夜の夢』(A Midsummer Night's Dream, Op.108 1940)や、国際競技会で1等賞を受賞したオペラ『ベニスの商人』(The Merchant of Venice 1958)などの作品も残しています。

1968年、72才、カルフォルニア州ビバリーヒルズにて没。