エンリケ・グラナドス Enrique Granados(1867-1916)

1867年7月27日、アルベニスと同じくスペインのカタルーニャ地方の街、レリダ(Lerida)で誕生。 バルセロナ音学院(リセウ高等音楽院)に入学してピアノを勉強しました。

1883年、16歳でシューマンの「ソナタOp. 22」を演奏してバルセロナ音学院のピアノコンクールで優勝。 音学院を首席卒業した後、フェリペ・ペドレル(Felipe Pedrell Sabaté)のもとで和声と作曲の教えを受けます。



1887年、彼のパトロンのエドゥアルド・コンデ(Eduardo Conde)によって与えられた財政援助のおかげで、 ピアニストとしての訓練を継続する為にパリに移動。パリ音楽院への入学は運悪くチフスにかかり入学できませんでしたが、 パリ音学院のシャルル=ウィルフリッド・ド・ペリオー(Charles-Wilfrid de Bériot 1833-1914)のもとで2年間、研鑽を積みます。

1889年、故郷カタルーニャの都、バルセロナに帰り、グリーグのピアノ協奏曲を初演してピアニストとしてデビュー。 その後は、作曲にも力を入れていきます。
1892年、アンパロ・ガル(Amparo Gal)と出会い、恋愛の末、翌年、バルセロナの教会で結婚。

1892年、25歳から数年(1892-1910)をかけた名作「12のスペイン舞曲集」(Danzas espanolas op.37)で広く認められるようになり、 「グラナドスはスペインのグリーグである」と評されるに至ります。アルベニス同様、グラナドスも小品集を数多く作曲し、 組曲として出版しましたが、彼の初期の作品のうち、出世作となったのが、この「12のスペイン舞曲集」で、 当時のパリ音楽界の印象派の作曲家たちの影響や、更には7歳年上のアルベニスの音楽活動と、 グラナドス自身の持つ民族音楽派としての素質が見事に発揮され、簡素な作風の中にも情緒豊かな作品に仕上がっています。

この全12曲からなる舞曲集は、中でも、第4番:ヴィリャネスカ (Villanesca)、 第5番:アンダルーサ (Andaluza)(作家、ジャーナリストで大親友のアルフレッド・G・ファリアに献呈)、 第10番:ダンサ・トリステ(Danza triste)~が特に有名で、ギターでは第5番と第10番がよく演奏されます。
「12のスペイン舞曲集」のうち、第4番と第7番はグラナドス自身がタイトルをつけましたが、 他の作品は出版社によって命名されています。 アンダルーサとは「アンダルシアの調べ」、プライレーラは「嘆き節」を意味しています。

1898年、オペラ「マリア・デル・カルメン」(Maria del Carmen)をバルセロナで初演。
1901年、グラナドス・アカデミー(グラナドス音学院)を創設し、多くのピアニストや作曲家を育てていきます。 その後グラナドスは、バルセロナでの活動を続けるかたわら、折を見てはパリへ出かけて多くの演奏会を開いています。

当時のグラナドスの高弟のうち、フランク・マーシャル(Frank Marshall 1883~1959) は、このアカデミーで師の教えを受けた後、 マドリッド王立音学院へ入学。修了演奏ではマヌエル・デ・ファリャと首位を争いましたが、その後、師匠のアカデミーを引き継ぎ、 アリシア・デ・ラローチャ(Alicia de Larrocha de la Calle 1923-2009)のような素晴らしい逸材を輩出しています。

1904年、マドリッド王立音学院のコンクールに応募。
「演奏会用アレグロ」(Allegro de concierto op.46)は審査員の全員一致で1位を獲得。 華麗な前奏に続いて奏でられるロマンティックな楽想はシューマンを、 オクターブを多用した大胆に躍動する分散和音はリストの作品を想わせる楽曲になっています。

この他、彼の初期作品には「カレッサ・ワルツ」(Carezza vals op.38)、 キューバの風景を思い描いた「キューバ風」(A la cubana op.36)、 一遍の狂詩曲にまとめあげた「スペイン奇想曲」(Capricio espanol op.39)などがあり、 それぞれがグラナドスのロマンティシズムをたっぷりと包容した情緒あふれる作品になっています。



この後、バルセロナでの音楽活動も軌道に乗り、40歳を越えたグラナドスは、 建立して間もないマドリッドのプラド美術館に立ち寄った際、同時代のスペインの画家ゴヤの絵に出会います。
元々、グラナドスは、道端を歩いている時に、ふと浮かんだ楽想を、手近な「白いもの」に書きつける習慣があり、 外出時には真っ白だったシャツが、帰宅時には真っ黒になっていたり、
「今、そこで、それはそれは、ほれぼれするぐらい、美しい御婦人にお会いした」と、友達をつかまえては、どんなに素敵だったか、 その様子をピアノの即興演奏で弾いてみせたりするロマンチストでしたが、 このゴヤのマホやマハの絵(マホ majo=伊達男、マハ maja=粋な女性)に魅せられ、プラド美術館に足繁く通いつめるうちに、 やがて自分の心に沸き上がった楽想を1つの組曲にまとめます。こうして完成したのが組曲『ゴイェスカス』でした。

1911年、ピアノ組曲『ゴイェスカス / 恋するマハとマホ~ゴヤの絵画の場面集』(Goyescas-Los Majos enamorados)が完成。 この組曲は彼の初期作品の「スペイン舞曲集」の素朴な美しさを官能的な美の極限まで高めた秀作と評されており、 第1曲目「愛の言葉」(Los requiebros) と第4曲「嘆き、またはマハと夜鳴きうぐいす」(Quejas o la maja y el ruisenor) は特に有名な作品です。

 第1曲:愛の言葉 / Los requiebros
 第2曲:窓辺の語らい / Coloquio en la reja
 第3曲:ともしびのファンタンゴ / El fandango del candil
 第4曲:嘆き、またはマハと夜鳴きうぐいす / Quejas o la maja y el ruisenor
 第5曲:愛と死(バラード)/ El amor y la muerte(Balada)
 第6曲:幽霊のセレナーデ / Epilogo 'La serenada del espectro
 第7曲:わら人形(ゴヤ風な風景) / El pelele-Escena goyesca

ショパンについて「僕はもう、ショパンの”ショ”と聞いただけでうっとりとしてしまうんだ」と述べていたグラナドスですが、 彼の作風には民族的な立場に身を置きながらも本家ロマン派の作曲家以上にロマンティクを求め、 優美にして華麗な作品が多くをしめているのが特徴です。


(グラナドスと妻アンパロ)

1914年、47歳の時、サル・プレイエルのホールで自作の曲を集めた演奏会を開催して絶賛を浴び、レジョン・ド・ヌール勲章を受章。 また、この時の組曲「ゴイエスカス」の評判は大変なもので、これをオペラで見たいという希望に応え、 2幕ものの「オペラ・ゴイェスカス」を作曲します。
しかし運悪く第1次大戦が始まり、パリでの上演は不可能になってしまいます。
ここへ、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場からの上演依頼がかかり、水嫌いなグラナドスと彼の妻は、 6人の子供達をバルセロナに残し、海路アメリカまで行くことになります。

1916年、1月26日、ニューヨークで「オペラ・ゴイェスカス」初演に立ち会います。
このオペラの初演は大成功をおさめ、ウィルソン大統領の招きによるホワイトハウスでの演奏会の為に、帰国の直行便をキャンセル。



1916年3月24日、リバプール経由の客船サセックス号で帰国する途中、英仏海峡を渡っている時、 ドイツ海軍の潜水艦Uボート(SM UB-29)による無差別魚雷攻撃を受け、船は沈没。 目撃者によると、一度は救助され救命艇に乗ったグラナドスでしたが、 波間に浮き沈みする最愛の妻アンパロの姿を見つけると我を忘れて海に飛び込み、妻と共に海に飲み込まれ行方不明になります。