イサーク・アルベニス Isaac Albéniz(1860-1909)
フランスとの国境に近いカタルーニャに生まれ。彼のフルネームは、
イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス・イ・パスクアル(Isaac Manuel Francisco Albéniz i Pascual)とされています。
1864年、幼い頃から音楽に興味を示したアルベニスは、姉のマリア・クレメンティーナからピアノを習い始め、
4歳の時、バルセロナのロメア劇場における洪水の犠牲者の為の慈善演奏会に出演。
他の演奏者達にまざって姉と共に連弾を披露。これが彼の初ステージでした。
1868-71年、マドリード王立音楽院(Real Conservatorio in Madrid)にてソルフェージュとピアノを学びました。
1869年、プリム将軍(=当時の首相)の12歳の息子である子爵に献呈したピアノ曲『軍隊行進曲』が出版されます。
1872年、第3次カルリスタ戦争勃発
1875年4月、この時期、アルベニスはスペイン南部のムルシアで演奏。
同月、29日にはカディスにて演奏。新聞記事には「4月29日の晩、若きピアニスト Don Isaac Albenizによる演奏会があった。
彼はキューバへ向かう途中で13歳と若いが、すでに名声を獲得している」(=実際には15歳)と記されています。
1875年4月30日、父親のアンヘルがハバナの検閲長官に任命され、カディスから出航。
1975年5月~8月プエルトリコの各地、9月サンチャゴ、10月ハバナで演奏。
これらハバナの自宅を拠点にした新世界における演奏活動は、アルベニスのスペインでの成功に感銘を受けた父の友人達が演奏旅行を企画し、
今後の学費が稼げると期待した~とされています。
1876年5月2日、ライプチッヒ音楽院に入学。理論、作曲、声楽、ピアノ、室内アンサンブルを学び始めますが、
同年の6月24日には辞めてしまいます。音楽院の教授達が「アルベニスは勤勉で真面目な学生だった」評しているにも関わらず、
ライプチッヒへの留学が短期間になってしまった詳細な理由は不明ですが、理論の授業を欠席していることから、
おそらくドイツ語の習得が困難だったのではないか?とされています。
1876年7月、父親のアンヘルがハバナでの職を失いスペインに帰国。
これによりアルベニスのライプチッヒでの滞在は経済的にも不可能になり、
父親にスペインに呼び戻されたのではないか?と考えられています。
1876年、留学の為の支援者を探していたアルベニス親子は、この年の夏、
マドリッドの名士達を集めたサマーコンサートで知り合ったロメラ伯爵の紹介により、
アルフォンソ12世(当時のスペイン王)の私設秘書、ギジェルモ・モルフィー(Guillermo Morphy)から奨学金を確保、
彼の後援を受けることに成功します。
国王の私設秘書 モルフィーとの出会い
ギジェルモ・モルフィー(Guillermo Morphy y Ferríz de Guzmán 1836-1899)は、
マドリッド生まれのスペインの貴族で、音楽評論家、音楽学者、歴史家、作曲家。
1863年、19世紀、最も影響力を持つとされる音楽評論家でありベルギーの宮廷楽長とブリュッセル王立音楽院院長だった、
フランソワ=ジョゼフ・フェティス(François-Joseph Fétis 1784-1871)に師事します。
1868年、革命により、イサベル女王と家族はスペインを追われパリへ。
モルフィーはウィーンに逃れた王子アルフォンソに同行し行動を共にします。
1874年、支持者らの支援を得たアルフォンソはスペイン王位奪取を宣言(スペイン王政復古)。
1875年、モルフィーはスペイン国王アルフォンソ12世の私設秘書官に任命されます。
1882年、これまでの功績によりアルフォンソ12世から伯爵号を受けます。
1885年、アルフォンソ12世が肺結核により早世すると、モルフィーは音楽活動に専念。
スペインのビウエラに関する歴史研究書やスペイン語に翻訳したベートーベンの伝記など出版します。
この様な経歴から、若い音楽家に対して良き理解者だったモルフィーは、
スペインの王宮とブリュッセル王立音楽院への太い繋がりを持っていたと考えられており、
彼が後援した有名な音楽家にはアルベニスの他に、アルベニスと同じカタルーニャ出身のチェロ奏者、
パブロ・カザルス(Pablo Casals 1876-1973)もいました。
カザルスが12歳の頃、一晩4ペセタの報酬で週3回チェロを弾いていたカフェに、
すでにピアニストとして有名になっていたアルベニスが彼の演奏を聴きに来ます。
この若きチェロ奏者の演奏にいたく感動したアルベニスは、モルフィへの推薦状を手渡します。
1893年、16歳になったカザルスは母と二人の弟と共にバルセロナを去り、アルベニスの推薦状を持ってモルフィのもとを訪ねます。
才能のある若者を見つけることが好きだったモルフィは、カザルスの演奏に感動して「パブロ、きみは本物の芸術家だ!」と叫び、
以降、カザルス少年はモルフィのもとでドイツ語、文学、哲学、数学、歴史、美術を学び、
この出会いからの3年後には、アルベニスと同様にブリュッセル王立音楽院へ留学しています。
アルベニスとグラナダ
1876年10月17日、16歳でブリュッセル王立音楽院に入学したアルベニスは、ピアノ、和声、ソルフュージェを学びます。
後年、彼の組曲「イベリア」を管弦楽用に編曲し、指揮者としても活躍したスペインのヴァイオリニスト、
エンリケ・フェルナンデス・アルボス(Enrique Fernandez Arbos 1863-1939)とは、この地で知り合い、良き友人、音楽仲間となっています。
(若き日のアルベニスと親友アルボス)
1879年、ピアノ科のコンテストを受験。この試験の内容は、指定された調に移調した上で歌や楽器の伴奏を初見で演奏、
オーケストラ譜の初見読み取り、数字付き低音のみで通奏低音を初見演奏するなどの課題の他に、
課題曲にモーツァルトのハ長調の協奏曲を、自由曲としてスカルラッティのカプリチオーソとショパンの華麗なる変奏曲を演奏。
その結果アルベニスは、アルテュール・デ・グレーフ(Arther de Greef 1862-1940)と共に1位を獲得しています。
(※ちなみにヴァイオリン科の1位は親友のアルボスでした)
1879年9月、ブリュッセルでの勉強を終え、バルセロナにて凱旋コンサートを開催。
1880年、バルセロナからマドリッドへ、その後、ブリュッセルからプラハへと移動しています。
一説によると、この旅行はフランツ・リスト(Franz Liszt)に師事する為だった~とされていますが、
当時、リストはワイマールにいた為に彼の願いはかないませんでした。
1880年、ハバナに戻って演奏会を開催した彼は、翌年の2月、地元オーケストラを振る指揮者として初登場。
数日後のサンチャゴでの演奏会でも好評を得ています。
1881年、グラナダへの演奏旅行の際、当地の名士達の家でプライベートコンサートを開催。
演奏会の合間に訪れたアルハンブラ宮殿では、この建築物の詳細な歴史解説を宮殿の学芸員から受けるうちに、
この考古学者ラファエル・コントレラス(Rafael Contreras)と友人になり、お礼に彼の家で演奏したいと申し出ます。
コンサート当日、コントレラスの娘の為にロマンティックなレパートリーを中心に演奏し、
最後にグラナダの地で受けたインスピレーションを主題にした即興演奏で会を終えます。
この様な、旅の思い出による即興演奏という経験は、後日、出会うことになるペドレルの助言により結実し、
その後の彼の作曲活動に大きな影響を与えることになっていきます。
イベリア完成への道
1883年、マドリッドを本拠として演奏家兼作曲家として活動を始めた頃、
教師で作曲家のフェリペ・ペドレル(Felipe Pedrell 1841-1922)に出会い、
愛する祖国スペインの歌をモチーフにした楽曲を創作していく事を勧められます。
またこの年、3つ年下の可愛い教え子ロジーナ・ホルダーナ(Rosina Jordana)のことが頭から離れなくなり結婚。
1886年、『スペイン組曲』(Suite espanola op.47) が完成。
全8曲からなるこの曲集はスペイン各地やキューバの印象をまとめた作品で若い頃の彼の代表作。
当初は第1、2、3、7曲の4曲しか完成していませんでしたが、アルベニスの死後、出版社が他の曲を加えて出版しました。
後年「アストゥリアス」と「カスティーリャ」の2曲は「スペインの歌 op.232」の中にも組み込まれて出版されています。
第1曲:グラナダ / Granada(Serenata)
第2曲:カタルーニャ / Cataluña(Curranda)
第3曲:セビーリャ / Sevilla(Sevillanas)
第4曲:カディス / Cadiz(Saeta)
第5曲:アストゥリアス / Asturias(Leyenda)
第6曲:アラゴン / Aragon(Fantasia)
第7曲:カスティーリャ / Castilla(Seguidillas)
第8曲:キューバ / Cuba(Nocturno)
(妻:ロジーナ)
1887年、『旅の思い出』(Recuerdos de viaje op.71)が完成。
全7曲からなり、これも彼自身の~旅の思い出~を集めたもの。特に第6曲の「入江のざわめき」は、ギターでもよく弾かれる曲です。
第1曲:海にて / En el mar
第2曲:伝説 / Leyenda(Barcarola)
第3曲:朝の歌 / Alborada
第4曲:アルハンブラ宮殿にて / En la Alhambra
第5曲:ティエラの門 / Puerta de Tierra(Bolero)
第6曲:入江のざわめき / Rumores da la caleta(Malaguena)
第7曲:海辺にて / En la playa
1890年、組曲『スペイン』(Espana op.165)が完成。
6曲からなる組曲。ハバネラのリズムが特徴的な「タンゴ」 が第2曲目に入っています。
第1曲:前奏曲 / Preludio
第2曲:タンゴ / Tango
第3曲:マラゲーニャ / Malagueña
第4曲:セレナータ / Serenata
第5曲:カタルーニャ綺想曲 / Capricho Catalán
第6曲:ソルティコ / Zortzico
この時期、アルベニスは、サルスエラ(スペイン版オペレッタ)の作曲なども試みますが、進歩的な彼の手法は、中々、受け入れられず、
やがてスペインの保守的な音楽界に嫌気がさし、活動の場を国外に求めていきます。
1889年~1892年、ヨーロッパ全土で演奏旅行。彼の演奏家としての頂点をむかえます。
1894年、34歳の頃から、妻と共にパリに移住。この地で、当時の花形作曲家、
ショーソン、フォーレ、デュカ、ドビュッシーらと親交を深め、近代的な作曲技法を身に付けていきます。
(ディナーを楽しむアルベニスとフォーレ)
1897年、『スペインの歌 』(Cantos de Espana op.232)が完成。
5曲からなる組曲ですが、先に述べた「スペイン組曲 op.47」からの重複曲(1曲目と5曲目)を除くと新曲は3曲。
第1曲:前奏曲 アストゥーリアス / Asturias
第2曲:オリエンタール 東洋風 / Oriental
第3曲:やしの木陰 / Bajo la palmera
第4曲:コルドバ(夜想曲) / Cordoba(Nocturne)
第5曲:セギディーリア(カスティーリャ) / Seguidillas(Castilla)
この時期、アルベニスは劇場音楽にも挑戦し始め、「アーサー王3部作」の構想をもとにして、
第1部マーリン(Merlin)、第2部ランスロット(Lancelot)、第3部グィネヴィア(Guinevere)という壮大なオペラ作品の作曲活動に着手していきます。
1897年、第1部マーリンが完成。
1900年、第2部ランスロットに着手していましたが、腎臓病悪化のため断念。
ピアノ曲の作曲に戻ると、1905年から1909年の間に彼の最も良く知られた作品『イベリア』を書き上げます。
「イベリア」とはイベリア半島、つまりスペインを意味する古名。
副題として「四季の印象による12の物語」というタイトルが与えられている全4集~12曲からなる民族色豊かなピアノ曲集で、
ドビュッシー、メシアン、グラナドス、ファリャなど、彼らが絶賛したという記念碑的最高傑作。
その楽譜にはスペイン各地の伝承音楽への造詣が深く、演奏にも非常に高度な技巧が要求されます。
1906-1909年、『イベリア』第1巻~4巻の初演は、当時、売り出し中の女流ピアニスト、ブランシュ・セルヴァ(Blanche Selva 1884-1942)が担当。
1909年、『イベリア』第4巻の初演からわずか3ヵ月後、フランスのピレネー山中で亡くなり、バルセロナに埋葬されました。
死の直前、彼の栄誉ある活動を讃え、レジオン・ド・ヌール勲章が授与され、
この賞を、当時、パリへ勉強に来ていた同国人であるグラナドスが届けたのですが、
グラナドスは、友人のやつれ果てた姿に、彼の運命を予感し、涙を抑えることが出来なかったと語っています。
また、アルベニス亡き後、ドビュッシーは組曲「イベリア」の楽譜をいつもピアノの傍に置き、
彼を思い出しては弾いていたそうで、ドビュッシーが、どれほど「イベリア」を愛していたか想像できる話しとされています。
アルベニスは、特にギターの為の音楽を書きませんでしたが、彼の多くの作品にはギターの奏でる音に非常に強く影響を受けた跡が見られることから、
彼の音楽のギターへの転写は絶大な効果を生み出します。