ミゲル・リョベート Miguel Llobet Solés (1878-1938)

バルセロナ生まれ、カタルーニャのギタリスト、作曲家。タレガの高弟。
郷土民謡『アメリア姫の遺言』『盗賊の歌』のギターへの編曲や、演奏や録音を通して国際的な活躍を続け、 作曲家のドビュッシー、ファリャ、ヒンデミット、 またギタリストのアンドレス・セゴビアに影響を与えたとされています。



父親が彫刻家だったこともあり、幼い頃から美術を学んでいましたが、同時にピアノやヴァイオリンにも親しんでいました。 ギターとの出会いは叔父からの贈り物だったそうです。
1889年、アントニオ・ヒメネス・マンホン(Antonio Jiménez Manjón)のギター演奏に接したことをきっかけにギターに転向、 マヒン・アレグレ(Magí Alegre)に師事します。

1892年10月、フランシスコ・タレガに出会い、演奏を聴いてもらう。
1894年、バルセロナ市立音楽学校でタレガに師事。
1898年、ごく親しい友人のみを集めたプライベートコンサートを開始。
1901年、バレンシア音楽院にて、初の公開演奏を開催。同年、マラガの音楽院での演奏により名誉教授の称号を授与されました。
1902-1903年、マドリッドでスペイン王族の御前演奏を成功させます。

1904年、フランスで活躍していたスペイン人ピアニスト、リカルド・ビニェス(Ricardo Viñes)の紹介によりパリで演奏。
1905年、パリの音楽学校「スコラ・カントルム」や、フランスの音楽と新進作曲家を広めるために設立された「国民音楽協会」で演奏。
1910年、ブエノスアイレス(=アルゼンチンの首都)に移り住み、中南米やカリブ海域で演奏活動を継続していきます。
1912年、アメリカへ進出し、ボストン、フィラデルフィア、ニューヨークで演奏会を開催。
その後の数年間は、ベルギー、オランダ、ドイツなど、ヨーロッパ各地で積極的に演奏活動に取り組んでいます。



1914-1918年、第一次世界大戦が勃発。
1920-1921年、スペインでの演奏後、ドイツのミュンヘン、ライプツィヒ、ドレスデン、ケルン、シュトゥットガルトでのツアーを開催。
1922年、ウィーンに進出。ウィーンでは、当時12才だったルイーゼ・ワルカー(Luise Walker)の邸宅に頻繁に招かれ、 この幼い天才少女を指導しています。



1923年、リョベートの南米デビューにおけるパトロンの一人、ファン・アニード(Juan Anido)の娘、 マリーア・ルイサ・アニード(María Luisa Anido)を指導。
1924年、再度、ドイツ、オーストリアを演奏旅行。



1930年、再びアメリカ大陸に戻り、スペイン芸術祭(=米国議会図書館の賛助企画)で演奏。
ヴァイオリン奏者のアントニオ・ボッサ(Antonio Bossa)の奨めにより、 ソロ演奏とファリャ(Manuel de Falla)の『6つのスペイン歌曲 Siete Canciones Españoles』のギター伴奏を編曲。
ソプラノ歌手ニナ・コチッツ(Nina Kochitz)と、この編曲版を上演することを引き受けます。



1932-1934年、バルセロナの自宅にてキューバ出身の若手ギタリストのホセ・レイ・デ・ラ・トッレ(José Rey de la Torre)を指導。 この時期、すでに精力的な演奏活動から離れ、静かな隠遁生活を楽しんでいた彼の邸宅には、 時折、マヌエル・デ・ファリャ(Manuel de Falla)やエミリオ・プジョル(Emilio Pujol)が訪れていたそうです。
1938年2月22日、バルセロナにて胸膜炎の悪化により没しました。


アントニオ・アルバ Antonio Alba (1873-1940)

スペインのカタルーニャ州、レウス生まれの作曲家、ギタリスト、教育家。
若くして南米に移住した彼は、その後、チリの首都サンティアゴ・デ・チリに定住しながら、 当地のクラシックギターの普及に貢献しました。

一般的に彼の名前はアルバ(Antonio Alba)として知られていますが、 本名はフアン・アントニオ・ハヴァ・フェレ(Juan Antonio Hava Ferré)であり、 アルバという名前は、彼の音楽家としてのステージ名(=芸名)でした。 彼がステージ名を用いるようになった経緯、その動機に関しては明らかになっていませんが、 現時点においてステージ名を採用した最初のギタリストとされています。

チリ大学芸術学部でギター科の教授を務めたリリアナ・ペレス・コーリー(Liliana Pérez Corey 1917-1990)は、 彼の弟子の中で最も有名な女流ギタリストで、現在のチリでは彼女の名前を冠したギターコンクールが開催されており、 チリを代表するギターのパイオニアとして知られています。



1873年12月7日午前4時30分、カタルーニャ州、レウスに生まれたアルバは、 幼少時代、ホセ・マリア・バルヴェ(Josep Maria Ballvé i Freixa)と共に、 レウスで音楽理論、歌、ピアノを学んでいます。 その後、ギターを手にした彼は、この楽器をとても気に入ったようです。
(※ホセ・マリア・バルヴェ:スペインのレウス出身の作曲家、教育者)

アルバと同郷のレウス出身のスペイン人作家、 フランシスコ・グラス・イ・エリアス(Francisco Gras y Elías 1850-1912)は、 彼の伝記ノートの中で少年時代のアルバを次の様に記しています。
‎『彼は、とても賢くてフレンドリーな性格を持つ少年で、 素晴らしいミュージシャン達と行動を共にすることのできる資質を持っており、 ソルフェージュ、ピアノ、歌、オルガンからハーモニーを研究したり、 ギター、バンドリア、マンドリン、ハープなどの楽器を、実際に手にして勉強することができたのです』‎‎

1890年、17歳で南米に移住、アメリカのいくつかの都市や国をツアーした後、
1895年、チリのバルパライソに移住。音楽教師と合唱協会の総監督として働きます。

「スペイン国民楽派の父」と呼ばれるフェリペ・ペドレル(Felipe Pedrell 1841-1922)は、 彼の本の中でアメリカ大陸に亡命中の作曲家アルバのことを、 『歌のためのダンス、そのロマンティックな曲調を得意としている』と評しています。

1902年11月12日、レウスに一時的に帰郷。
1903年、バルセロナ、パリ、マドリード、ロンドン、ナポリ、ミラノを訪問、ヨーロッパへの留学旅行を終えると、 チリの首都サンティアゴ・デ・チリに移り、この地でギターの教師を務めました。
また教育分野では、現代と古代の音楽で最も使用される主要な単語や音楽用語を解説した 「音楽の理論」‎‎に関する本を出版しています。‎
1940年、サンティアゴ・デ・チリにて亡くなりました。



彼の残した約400の作品のうち、現在、確認できる作品番号(op.=オーパス)付きの曲は、111作品になり、 その編成は、ギター独奏、ギター2重奏、ギター3重奏、歌とギター伴奏、バウンドリア2重奏、 マンドリンとギター、ピアノ独奏、歌とピアノ伴奏、バウンドリアとピアノ、 マンドリン独奏、マンドリン2重奏、ハープ独奏など、多岐にわたるものでした。

チリの歴史研究者のホルヘ・ロハス・ゼーガース(Jorge Rojas Zegers)は、 『アルバは民俗的なモチーフに基づくポピュラー音楽の作曲を得意としており、 歌とギター伴奏のためのコレクションでは、スペイン風のワルツ、マズルカ、ポルカ、ハバネラなど、 幅広いレパートリーを広めることに成功した』と評しています。