フランシスコ・タレガ Francisco Tarrega (1852-1909)

スペインのヴァレンシア地方、ヴァリャレアルに生まれたタレガは、大変貧しい家庭に育ったと伝えられています。 両親が共働きだった為、幼いタレガはベビーシッターに育てられていましたが、 ある日、むづがって泣く子供を、あやすことを諦めた幼いべビーシッターは、 その腹いせに街の汚水処理用の水路に放り込んでしまいます。

この時に受けた身体的衝撃と寒さにより、幼いタレガは生死をさまようほど衰弱し、彼の両目の視力は遺伝的な要因も重なり、 ついに全快することがないほどの損傷を受けてしまいました。
その後、8歳の頃からギターを始めた幼いタレガは、学校を休んでまで家計の手助けをしなければなりませんでしたが、 しかし貧しいながらも芸術好きな父親の理解もあり、ソルフェージュの手ほどきを受けるようになります。

自分の息子に音楽的な才能が眠っていることを予感した父親は、彼自身が、35歳頃から盲目であったことから、 近い将来、遺伝的にタレガの眼が完全に見えなくなった場合でも、音楽の道で生きていけるようにと熟慮して、 ソルフェージュとピアノをエウゲニ・ルイス(Eugeni Ruiz)に、 ギターをバレンシア有数の盲目のギタリスト、マヌエル・ゴンザレス(Manuel González)に学ばせます。



19世紀のスペインは、戦争によって音楽は芸術的な領域から遠ざかり、特にナポレオン軍の侵攻以来、国家秩序が乱れきっており、 タレガは戦争の影が重くのしかかる暗黒時代に少年期を過ごしていました。

1862年、当時、有名なコンサートギタリストだったフリアン・アルカス(Julián Arcas)が、この親子の住む街に立ち寄った際、 幼いタレガの演奏を聴き神童と褒め称え、将来は音楽勉強の為にバルセロナへ行くことを強く薦めます。
1865年、13歳の頃、彼は突如として父の家を飛び出してバルセロナに旅立ちます。
そこでタレガは、音楽学校へ行く代わりに、お金を得る為にパブとカフェテリアの近くで演奏しながら、 若い音楽家のグループ(Band of Gypsies)に加わり、日々、音楽、演劇、絵画に触れ、自分の教養を高める毎日を過ごします。

しかし、こうした彼の生活を伝え聞いた父親は、再び、彼を家に連れ戻し、家計の手助けにもなる様にと、 ブリアーナにあるカジノの会員専用レストランのピアニストの職に就かせます。
タレガは、カジノでの1時間程度の仕事を終えると、その後、門弟達を教え、夕食まで自分の練習を続けた後、 また、カフェでピアニストとしての仕事をするという毎日を送り、深夜、わずかに残された時間も惜しんでギターを手に取り、 ブリッジ付近の弦の下にハンカチをはさみ、音量を弱めながら練習にはげみ、 眠気を取り払う為に冷水を入れたタライの中に両足を入れながら練習を続けたといわれています。

生活の為の仕事とはいえ、自分の精神が求める理想に妥協を許さない彼の音楽に対する姿勢は、ギタリストとしての確実な音楽性と、 ピアニストとしての繊細な表現を身につけさせ、いつしか、彼のギタリスト、ピアニスト、この2つの楽器の奏者としての名声は、 ブリアーナ中に広まっていきました。

1870年、最愛の母を亡くした彼は、
1871年、兵役に入りますが、軍隊から帰った彼に、親しい友人の一人であるブリアーニの実業家アントニオ・カネサ(Antonio Canesa)は、 タレガのマドリッドでの音楽修行の為の学費援助を約束し、また、この理解ある後援者によって、当時、最も有名なギター製作家、 セビリアの名工アントニオ・トーレス(Antonio de Torres Jurado)の名器を手にすることが出来ました。



1874年、22歳でマドリッド国立音楽院に入学した彼は、ギター、ピアノ、ヴァイオリン、作曲において優秀な成績を修め、 翌年の1875年にはコンクールで1位を獲得します。卒業後は、バルセロナやマドリードなどの主要都市で多くの演奏会が開かれ、 従来のギター演奏には見られなかった新鮮で独特の奏法は、聴衆に熱狂的絶賛の声で迎えられ、 「ギターのサラサーテ」と評されるまでになります。

彼の学生時代、世の中ではピアノがもてはやされ、一方、ギターはコンサートに適さない楽器と評され、かつての名声も地に落ち、 酒場で歌う歌手の伴奏楽器としか見られていない時代になっていました。そういう時代の中、彼の名声とそのギター演奏の素晴らしさは、 同僚の学生仲間はもとより、音楽院の教授達の間に急速に伝わり、当時の著名な芸術家達と慈善演奏会で共演するまでになります。

特に『アルハンブラ劇場』の一夜、巨匠アリエタ(Emilio Arrieta)は、演奏を終えたタレガを抱擁しながら、 「ギターは君を必要としている。いや、君はギターの為に生まれてきたのだ!」という熱烈な賛辞を贈りました。 この出来事は、タレガの心の中に確固たる自信と確信を持つきっかけになり、 この瞬間、「自分にとってピアノは音楽修養に欠かせない楽器だが、 自分の感性と気質に最も適した表現の道具はギターに違いない!」と悟ったのだそうです。

1881年、パリやロンドンでの演奏旅行を成功させた彼は、パリでスペインのイザベル女王の御前演奏を依頼され、 いくつかの劇場で演奏した後、ロンドンへと向かい、そしてこの年、マリア・ホセ・リソ(María José Rizo)と結婚。 以後、ペルピニャン、カディス、ニース、マジョルカ、パリ、バレンシアと演奏旅行を続けました。
1887年、バルセロナに定住。

当時は、どんなに優れた音楽家であっても、その活動をサポートしてくれるマネージメント機関などが存在していなかった為、 音楽家は、自分で勘定し、自分でリスクを背負いながら、各地のリサイタル開催に時間と労力をさかなければなりませんでした。 研究熱心なタレガにしてみると、この種の労力は苦痛であり、膨大な時間を必要とするコンサートツアーの企画は、 よほどの生活苦に陥るか、ギターの真価を問う重要な演奏会でないかぎり開催しないことを決心します。

またタレガは、規定の時間枠内の演奏会にも魅力を感じることができず、 「彼の演奏なら、いつまででも聴きたい!」という熱狂的な理解者を前にした演奏会を好み、 この種の通人を集めた内輪の会は、しばしば夜明け近くまで続けられたそうです。



そんなタレガが、バルセロナでの定住生活を考えていた頃にバレンシアで出会ったのが、 芸術を深く愛する富豪マルチネス未亡人(Conxa Martinez)でした。彼女は彼の有力な後援者となり、 彼と彼の妻の為にバルセロナにある邸宅を貸すことになります。

そして、グラナダからの旅行からバルセロナに戻ったタレガが、この家で作曲した曲が、 後年、彼のオリジナル曲で最も有名となったトレモロ奏法による名曲『アルハンブラの想い出』でした。 アルハンブラ(=赤い塔)というのは、スペインのグラナダ地方にあるイスラム宮殿の名前で、 ライオンの噴水の広場は砂漠の民の愛するオアシスをイメージして造られており、 その周囲の建物に見られる細い柱は「椰子の木」を表しているそうです。

タレガは、この宮殿のエキゾチックな印象を、豊かな伴奏の響きと共に、スペインの伝統楽器、 バウンドリア~マンドリンに似た小型の楽器~の奏でるトレモロに似せながら、 メロディを立体的に奏するギター独自のトレモロ奏法を用いて表現しています。

1897年、パリに渡る。
1898年、膝にリューマチを発病して、床に伏せる毎日を送り始めます。
1899年、病から再起した彼は、パリでの活動に復帰後、春には病後初の演奏会を開催。 その後、セビリヤで最愛の友人であるブルトンの為に『アラビア風綺想曲』を作曲。 しかし、これ程の名曲を作曲しながらも、日々、自分のギターの音に満足できず、更に研究を深めていきます。

1902年、50歳の時、彼のメソードの根幹とも言える爪を用いた奏法を完全に廃し、自身の爪を切ってしまうという、 ある意味、賭けにも似た挑戦をすることになります。
1906年、1月。不幸なことに、血栓病で右半身が異常をきたし、長い闘病生活へと入ります。彼の長期療養は、 彼の家族や周囲の人々の手厚い看護によって快方にむかい、再び、演奏旅行ができるようになりますが、しかし、これも長くは続きませんでした。

1908年、10月、彼は、懐かしき生まれ故郷、カステリオンに戻ります。 その後、いくつかのコンサートをするためにバレンシアから数カ所を移動。
1909年、12月2日、バルセロナにて遺作となる『オレムス~Oremus(祈り)』を作曲。 楽譜に日付を記した直後、12月3日未明に気分が悪くなり、
12月15日、静かに息をひきとり、本人の遺志により故郷のカステリオンに埋葬されました。



この埋葬の際、柩の中の彼に最後の別れを告げる友人達が、そのタレガの右手を見た時、演奏の為に整えられた爪が伸びているのを発見し、 指頭奏法に切り換えたはずの彼が、死の直前まで研究を続けていたことに胸を打たれた~という出来事が伝えられています。