19世紀中期 ロマン派時代

産業革命によって引き起こされた劇的な変化の一つに鉄道があります。 この鉄道がコンサート芸術家達にもたらした影響は、以前よりも広範囲にツアーを行うことを可能にし、その結果、ツアー自体も拡大され、 より多くの聴衆の前で演奏する機会を得ました。

19世紀前半、数多くのギタリストと製作家達によって、様々な形へと開発され続けたギターは、 19世紀後半に入ると、その楽器開発技術は頂点に達し、6本の単一弦を要するギターはヨーロッパ全土だけでなくアメリカ大陸にも広まり、 普遍的なものとして世界に認識されていきます。

この時代、多くのギタリスト達がヨーロッパや南アメリカを舞台に旅していました。
1860年から1910年、スペインのバルセロナは、パリの後を継いで重要なギターの中心地になりつつある時期で、 フリアン・アルカス(1832-1882)やホセ・フェレール(1835-1916)などが活躍していました。

19世紀中頃、音楽愛好家達の関心は、ドイツで発明された新しい楽器ピアノフォルテ(ピアノ)や、 より巨大な音の渦を生み出す大編成オーケストラへと移りつつあり、この時期、ギターは、ほんのささやかな低迷期を迎えます。
しかしロマン主義が後期に入ると、ワーグナーの楽劇や、グスタフ・マーラーの交響曲が出現すると同時に、 それとは対極的にショパンやシューマンの『サロン音楽』が注目され始めます。
そしてここに、近代ギターの父と呼ばれる、フランシスコ・タレガが登場するのでした。


ヨハン・カスパル・メルツ Johann Kaspar Mertz (1806-1856)

ハンガリーのプレスブルグ(Pressburg)生まれ。貧しい家庭に育った彼は、 幼年期にギターとフルートの基礎を学び、12歳頃には、家計を助ける為に、すでにこれらの楽器のレッスンを始めていました。 彼は、その若い時期のほとんどをギター技術の確立に没頭しています。

1840年、34歳の時、彼の奏法とメソードを広めようという夢を持って故郷を離れ、ウィーンへと旅だち、 その地でギター教師としての地位を不動のものにします。 特に、女帝カロリーネ・アウグステ(Caroline Augusta)が後援する演奏会に出演して成功をおさめた彼は、 女帝に一流ギタリストと認定されます。



その後、モラヴィア、ポーランド、ロシアへと演奏旅行した後、約2年間で、ドレスデン、ベルリン、ブレスラウ、ケムニッツ、ライプチヒ、 プラハで演奏しました。このコンサートツアー中、彼は同じ演奏会に登場した若い女性ピアニスト、ジョセフィーヌと出会い、 共にツアーを重ね、数々の演奏会で成功をおさめた彼らは、1842年12月14日に結婚します。

その後、数カ月、この新婚夫婦達に運も微笑み、ウィーンに戻った彼らは、王室や上流階級の市民にギターを普及する活動に没頭していきます。 メルツの有名な生徒の中では、たぐいまれなる音楽的才能を持ったレドコフスカ公爵夫人や、 ヨーロッパ中の評判を得たヨハン・ドゥベスなどがいましたが、突然の病に倒れ、その後、約2年間、演奏活動を中止します。

1848年、この年の春、再起した彼の演奏会は満員の聴衆の熱狂的な拍手でむかえられ、 その後も演奏活動を続けましたが、ハンガリー革命が勃発、収入を絶たれ貧窮に陥ります。
1849年、ワイマール公妃庇護のもと演奏会を開催。その成功後、妻と共にドイツ・ロシアの各地に演奏旅行を開始しますが、 その多忙な生活は、彼の病の再発を招いてしまいます。
1855年、バイエルン王ルドウィヒ1世の御前演奏を成功させます。
1856年10月、ついに波乱の一生を終えます。

1856年、ロシア人貴族マカロフ侯は、ヨーロッパで評判の高い音楽家達を集め、 プレイヤーの為に書かれている作品から最も優れた作品に賞を与える選考委員会をつくりました。
このブリュッセル国際ギターコンクールの選考にあがった音楽家は31人、その64の作品の中から、 フランス人ギタリストのナポレオン・コストが2等賞、そしてウィーンに住むメルツの作品「吟遊詩人Op.13」が優勝に選ばれ、 賞金200.00ドルを獲得します。しかしこの時、すでに彼はこの世に無く、彼自身がこの朗報を聞くことはありませんでした。

彼の作品の多くは、ギターソロ、ギターデュオの編成が目立ちますが、古典的な構成と共にダンス、ノクターン、ポロネーズ、 そしてオペラからの編曲など、幅広いジャンルをこなす作曲家でもあり、また、妻とのピアノ重奏と同時に、10弦ギターを考案して演奏に用いるなど、 その才能は作曲と共に、非常に高い科学技術を要する楽器制作にまで及んでいます。


ナポレオン・コスト Napoleon Coste (1806-1883)

フランス、ドゥバー生まれ。父親は帝国陸軍の軍人で、コストも最初は父の後を継いで軍人になるはずでしたが、 11歳の時にかかった病気回復に軍歴は無理ということから、軍人を断念せざるをえなくなります。 6歳よりギターを始めた彼は、ギター経験者であった母親の影響と、その熱心な後押しによってギターの研究に没頭し、 家族と共にヴァランシエンヌへ移住した彼は、18歳でギターを教え始めます。



1828年、ギター名手レニアーニがコンサートを催すためにヴァランシエンヌへ来た時、彼は若いコストの演奏に驚嘆し、 自身の演奏会への出演を依頼。二人は、ジュリアーニの2重奏曲を演奏して好評を博します。
1830年、パリの地で、あまりにも短期間でギター演奏家として、また教師として有名になった彼は、さらに彼自身が感じていた欠点を克服する為に、 偉大なる大家ソル、アグアド、カルリ、カルカッシ達と交流を持ち、ギターの研究をより深めていきます。



1840年、コストは自分の作品を出版し始めましたが、当時は、ピアノの人気が勢いを増し始めた頃で、 名声、そして収入面においても成功をもたらすことはありませんでした。
1856年、ロシア人貴族マカロフ候により開催されたブリュッセル国際ギターコンクールに4つの作品を提出、2等に入賞したことにより、 ギター界のみならず広く一般に知られるようになります。
当時、コストはすでに50才でしたから、かなり遅咲きの部類に入るでしょう。



1863年、演奏会で階段から落下するという事故に合い、演奏家生命を絶たれましたが、死去に到るまでに70曲余の貴重な作品を残すと同時に、 熱烈な信奉者であるフェルナンド・ソルの教本や練習曲の改訂版の出版なども行い、ソルの作品集を後世に伝える重要な仕事をしました。
1883年2月17日、生まれ故郷で没しています。

代表作品は「ランド・セレナード作品30」「葬送行進曲とロンド作品43」「アダージョとディヴェルティメント作品50」など。 彼はフランスを代表するギターの名手であり、真の芸術家でした。


アントニオ・カーノ Antonio Cano (1811-1897)

スペインのムルシア地方ロルカに生まれ。若い時から外科医のための勉強と共に、 教会で音楽を学んでいた彼は、マドリッドに移り住んでからは、ビセンテ・アヤーラ(Vicente Ayara)にギターを、 ソリアーノ・フェルテス(Soriano Fuertes)に作曲を師事しました。医学校を卒業後、一度、故郷に帰って医者を開業します。



1847年、再びマドリッドに行くと、アグアド(Dionisio Aguado)がカーノの演奏を称賛。以降、アグアドの影響を受けながらギター演奏の奥義を研究していきます。
1852年、ギターの和声学の著作本(Metodo completo de guitarra)を出版。現在、日本で出版されている「35のエチュード」は、この本に記載されているもので、他にも練習曲集やロマンチックな小品を発表しながら、マドリッド国立音楽院でギターを教えることに専念します。



1853年~1858年、フランスとポルトガルに演奏旅行。その後、マドリードに戻ってからは王宮に招かれ、 彼のファンだった女王イサベル2世から最高の賛辞と記念品を贈られます。
1857年、国立聾唖盲学校の教授になりました。
1859年、亡命していたナポリから帰国後、正式に「スペイン王子」の称号を得たセバスティアン・ガブリエルのギター教師に着任しています。
1897年、マドリッドにて亡くなります。息子フェデリーコ(1838-1904)も、バレンシアやマドリードで活躍したギタリストとなり、 いくつかの作品を残しています。

カーノは、ギター用の約100曲および練習を作曲した、19世紀中期のスペインの代表的ギタリストですが、 時まさに大規模管弦楽の発展と、ドイツで発明開発されたピアノフォルテ(ピアノ)台頭の時代で、 このギター不遇時を支えたギタリストの一人として数えられています。


ホセ・フェレール Jose Ferrer Esteve (1835-1916)

1835年、スペイン、カタルーニャ地方で生まれた彼は、初め父からギターを教わり、
1860年、バルセロナに転居後、ホセ・ブロカ(1805-1882)に師事します。
1882年、ブロカの死後、パリにて演奏会を開催。その後、ギター教授を務めながら作曲家としても名声を得ます。



1893年、フランス音楽アカデミーのコンクールで入賞を果たし、アカデミーの一員に加わる事ができましたが、 念願だったギター教則本の出版には至らず、最終的にはバルセロナに戻り、
1898年、バルセロナの音楽学校教授に就任。
1916年、3月7日にバルセロナの自宅にて没しています。



彼の作品は、独奏曲を中心に2重奏やピアノ・フルート・歌との2重奏などがあり、師であるブロカや、タレガをはじめとする、 当時の著名な演奏家に捧げたものが多く見られ、その作風は通俗性のある親しみやすい点が特徴となっています。

Tango №1 op.19
Tango №3 op.50