マウロ・ジュリアーニ Mauro Giuliani (1781-1840)
南イタリアのボローニャ、バーリ近くの村ビシェリに生まれ。
幼年期はバルレッタで過ごしましたが、この頃から芸術一般を好み、特に音楽を愛好する少年だったようです。
幼くして、ヴァイオリン、チェロ、フルート、ギターを学び、16歳でミサ曲を作曲するまでになっています。
1799年、18歳の時、音楽修行の為にナポリに行き、当時、高名なギター製作家である、ファブリカトーレと出会っています。
1801年、妻マリア・ジュゼッペ・デル・モナコとの間に長男ミケーレが誕生。
彼は、後年、パリ音楽院の声楽教授となっており、その作品の中には、若干のギター曲もあります。
1803年、トリエステにおける演奏会の資料が、ジュリアーニの演奏会記録で最古のものですが、
そこで彼は、ギター、チェロ、ハープ・ギター(30弦ギター)の名手、教授として紹介され、
この3つの楽器の為の協奏曲を演奏しています。
1803年、ガエターノ誕生。最後まで、妻マリア・ジュゼッペ・デル・モナコの側にいて、ビシェリのジュリアーニ家を現在まで継続。
この生家は、ジュリアーニの子孫であるニコラ・ジュリアーニ氏 Nicola Giuliani によって記念館として運営されており、
館内にはジュリアーニの貴重な遺品(使用した楽器や手紙など)が展示されています。
1806年~1819年までウィーンに滞在。当時、ウィーンは爆発的なギターブームだったこともあり、
一躍、ギター界の第一人者として名声を博しました。このウィーンで、彼の自作曲が大量に出版されます。
1807年、ドイツ人女性であるウィルムート嬢(Fräulein Willmuth)との間にマリア誕生。
1808年、ギターとオーケストラの為の協奏曲 作品30を初演。
ジュリアーニの名がウィーンの新聞にはじめて出たのは1807年10月で、同月21日の新聞に、作品2と3が出版されたことが紹介され、
同年内には作品5、6、7が出版。中でも作品6の「8つの変奏曲」の大作が彼の出世作となりました。
彼が改善したギターの新しい記譜法(=各声部を明確にする書き方)は、広く受け入れられ、
ベートーヴェン、フンメル、モシェレス、マイセダー、シューベルト、ウェーバーなどと親交を結ぶと共に、
皇后マリー=ルイーズ(ナポレオン1世の皇后)の庇護を得るなど、彼の生涯で最も華々しい時期でした。
1813年、エミリア誕生。彼女は、ジュリアーニの晩年、ナポリで彼と共に同居していた子供ですが、
10代の頃から父親と共演しており、有名な奏者でした。また彼女の作品には父親以上の才能が見られるそうです。
1813年12月8日、ベートーベンの交響曲7番初演当日、オーケストラの一員(おそらくチェリスト)として演奏に参加。
1819年、経済的な理由からウィーンを去り、ヴェニス、トリエステ経由でローマに移動。
この地でロッシーニと知り合い、未発表曲などを見せてもらうなどして、音楽的な影響を受け『ロッシニアーナ』を作曲。
また未確認資料の一説では、このパガニーニを加えた3人(ロッシーニ、ジュリアーニ、パガニーニ)で演奏会を行ない
好評を博したという説もありますが証明はされていません。
1823年、重病の父親を見舞いにナポリへ。ギター曲の出版に成功。
1826年、ナポリのポルティチにて、フランチェスコ1世(=両シチリア王)とボルボーネ家(ナポリ=シチリア・ブルボン家)の宮廷のために
御前演奏を披露。また、この頃、高度な技術を持つギター奏者に成長した娘エミリアと頻繁に共演するようになっています。
1827年、健康が悪化し始め、2年後の5月8日に没しています。
◆HP:マウロ・ジュリアーニ記念館
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