ガスパル・サンス Gazpar Sanz (1640-1710)
スペイン17世紀のギタリスト。アラゴン地方カランダに生まれ、
サラマンカ大学において神学上の学位を取りました。
当時、王室聖歌隊長だったマエストロ・カピタンと呼ばれていたマテオ・ロメーロに音楽を習得。
その後、ローマやナポリで、オルガンをクリストフォロ・カレザーレから、
ギターは当時高名なギタリストだったレリオ・コリスタから学びました。
スペインに戻った彼は、 『スパニッシュギターの音楽教育~Instruccion de Musica Sobre La Guitara Espanola』を出版。
まず最初に刊行された、この教程の第一版(1674年)は、 ドン・ホアン・デ・アウストリアに、第二版(1697年)は、
スペイン王カルロス2世に献呈されています。
サンスの作品中、現代において最も親しまれている名曲、『スペイン組曲』は、この教程からの抜粋で、
後に現代のギタリスト、ナルシソ・イエペスが編曲、出版した現代版タイトルです。
ジョン・ダウランド John Dowland (1563-1626)
アイルランド出身のリュート奏者、歌手、作曲家。 その人気は非常に高く、
特にリュートの為の独奏曲、歌曲の分野においては、数多くの名曲を残しています。
1580年~1584年にかけてフランスに旅し、パリのイギリス大使ヘンリー・コバムに仕えました。
1588年、オックスフォード大学で音楽楽士となり、海外に職を求めて旅立ちます。
1594年~1598年には、ドイツ(ブラウンシュバイク、ヘッセ、ニュルンベルクの宮廷)に滞在。
1595年、イタリア(ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ)を旅しています。
1597年、ロンドンにて『リュートのためのタブラチュア付き4声部の歌曲集第1巻』を出版。
その後、リュート作品集や歌曲集が続いて出版されましたが、最初の曲集が第4版を重ねていることから、
当時としては異例の大成功だったようです。
1598年、ヘッセの伯爵の招きに応じてカッセルに戻り、
その後、1606年までデンマークのクリスチャン4世の宮廷にてリュート奏者の地位を得ています。
当時のヨーロッパの音楽界は、各国の王家が優れた音楽家を頻繁に交換していた時代であり、
音楽的に後発国だったデンマークは、ヨーロッパの主要国から様々な音楽家を招聘しており、
その最も有名な音楽家が英国の作曲家であるダウランドでした。
1606年、イギリスに戻り、1612年にイギリスのチャールズ1世の宮廷にて、
国王付属の第2リュート奏者の職に就きました。しかし、この頃からダウランドの創作意欲は急激に薄れ、
発表する曲も極端に少なくなっていきました。理由としては、すでにこの当時、ダウランドの作曲法は時代に取り残された感があり、
また、若い音楽家からの批判もあったようで、彼自身の長年の夢だった宮廷での立場を手に入れたものの、
それほど幸福ではなかったようです。
1621年、博士号を与えられ、1625年、ジェームズ1世の葬儀にて演奏しますが、
その翌年~ 1626年、春、ロンドンにて没しました。
彼の作品は、リュート収集で知られていた彼の息子ロバート(1591-1641)により編集され、後世に長く伝えられる事となります。
ダウランドの『第1歌曲集』の1ページ。円卓に座った家族や友人達が、1枚の楽譜でアンサンブルを楽しめるように、
それぞれの視点から印刷されている興味深い楽譜です。
ロベール・ド・ヴィゼー Robert de Visee (1650?-1732)
フランスのテオルボ奏者、ギター奏者、作曲家。
テオルボやバロックリュートの為の組曲をはじめ、器楽合奏曲も作曲しています。
ヴィゼーの出自は明らかになっていませんが、
ルイ14世の宮廷音楽家であり、
音楽教師でもあったフランチェスコ・コルベッタ(Francesco Corbetta 1615-1681)に師事したとされており、
1680年頃、ルイ14世(Louis XIV 1638-1715)の宮廷音楽家となっています。
1682年、『王に捧げるギターの書』(Livre de guitare dédié au roy)を、
1686年、『ギターのための曲集』(Livre de piéces pour la guitare)を出版。
この2冊のギター曲集には、計12の組曲が収録されています。
1709年、この当時の記録によると宮廷歌手としても活躍していたようで、
1719年、王のギター教師(maître de guitare du Roy)に任命されました。
フランスの哲学者、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau 1712-1778)の記録によると、
ヴィゼーは宮廷でヴィオール(=ヴィオラ・ダ・ガンバ)も演奏していたようです。
彼の没年に関しては、これまで、1720年、1725年と諸説ありましたが、
近年、フランスのクラシックギタリスト、ラファエル・アンディア(Rafael Andia 1942-)の研究により、
1732年にサインされた支払い明細書が現存することから、
この年、もしくはその翌年に没した~と仮定される説が有力視されています。
バッハ Johann Sebastian Bach (1685-1750)
18世紀、ドイツが生んだ偉大な作曲家、ヨハン・セバスチャン・バッハの作品は、
管弦楽、室内楽、声楽曲、 チェンバロ、オルガンなど、約700曲以上にものぼり、その膨大な量もさることながら、
音楽は神への奉仕であるという高い精神性と宗教性を第一に重んじた傾向が強かった為に通俗性に乏しく、
音楽界からは久しく忘れ去られた存在でした。 しかし、19世紀~1829年に、メンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を演奏してから、
一般に広く注目されるようになります。
彼は、過去の伝統美を継承しながらも、当時の最も新しい様式を吸収し、対位法的でありつつ新様式に従っているという、
独特の音楽を数多く創りあげていきました。
そのバッハの、ごく一部の作品である、リュート、バイオリン、 チェロ組曲などは、タレガやセゴビアが編曲に挑戦し、
多くの曲がギターへと編曲されています。
しかし、バッハの曲は総じて難曲中の難曲。現代のギター愛好家にとって、最も高い演奏能力を求められるのが、
バッハの作品ではないかと思えます。
ドメニコ・スカルラッティ Domenico Scarlatti (1685-1757)
バロック時代を代表する鍵盤楽器奏者、作曲家。
偶然ではありますが、バッハ、 ヘンデルが誕生した年と同じ、1685年、ナポリ楽派で有名だったオペラ作家、
アレッサンドロ・スカルラッティの6男としてナポリに生まれました。
1701年、16歳で、父が楽長を務めるナポリ王室礼拝堂のオルガン奏者兼作曲家となり、
1703年、ナポリで最初のオペラを発表。
1705年からは、音楽修行の為に、フィレンツェとヴェネツィアへに移り住みます。
この頃、芸術家のパトロンとして有名だった、ピエトロ・オットボーニ枢機卿(Pietro Ottoboni)の仲立ちで、
ヘンデルと鍵盤楽器の技量を競い合ったという逸話が現在に伝わっています。
結果、オルガンの即興演奏ではヘンデルが勝利。チェンバロの演奏ではスカルラッティのスタイルが好評を得て引き分けに終り、
ハッキリとした決着をつけることはできませんでした。
しかしこの出来事以降、彼ら2人は互いの実力を認め合い、その後、長きにわたって友情を結んだと伝えられています。
1709年~1714年にかけて、スカルラッティはポーランド王妃
マリー・カシミール(Marie Casimire Luise de la Grange d'Arquien)に仕え、ローマで王妃の私設劇場のために、
毎年、新しいオペラを発表しました。
1714年、王妃がローマを去った後は、ローマ駐在のポルトガル大使の楽長となり、
1715年には教皇庁のサン・ピエトロ大聖堂にある、ジュリア礼拝堂の学長に着任します。
宗教音楽の分野でも、数々の傑作を残したスカルラッティですが、
当時、このジュリア礼拝堂楽長という職務は、この分野では最高の地位だったのですが・・・、
1719年、突然、この地位を辞任すると、同年の終わり頃、ポルトガルの
ジョアン5世(João Francisco António José Bento Bernardo de Bragança)に仕える為、リスボンへとむかいます。
ポルトガルに到着すると、その直後から王家の宮廷楽長として教会音楽や祝典音楽を作曲、
同時に王家の子女の音楽教育を担当する事になります。
特に、王女マリア・バルバラ(=ジョアン5世の娘:María Magdalena Bárbara Xavier Leonor Teresa Antonia Josefa de Bragança)がチェンバロを好んでいた為、
この時期から、王女の為のチェンバロ練習曲を作曲し始めたのではないかとされています。
彼の作品中、ラルフ・カークパトリック(Ralph Kirkpatrick 1911-1984)によって整理され、作品番号をつけられた555曲にもおよぶ鍵盤楽器の曲は特に有名で、
彼の存命中、ベネチア版496曲、パルマ版463曲、ミュンスター版353曲、ウィーン版296曲と、
膨大な量の曲が各地で出版されていたということから見ても、ヨーロッパ全土で大変な人気を集めていたようです。
1728年、妻を迎える為に、一時、イタリアに帰国しますが、
翌年、王女マリア・バルバラがスペイン王子フェルナンド(=後のフェルナンド6世)のもとに嫁ぐと、
王女と供にマドリードに移住、以後、1757年に亡くなるまで、王家のチェンバロ教師としてスペインで過ごしました。
この様に、彼は後半生を主にスペインで暮らした影響からか、多くの作品の中に、スペイン的リズムや 独特の節回しが見られ、
クラシックギターで演奏した際にも大変効果的で、アンドレス・セゴビアをはじめ数々のギタリストが編曲を試みています。