アンドレス・セゴビアとの出会い
1920年、33歳の時、ギターの為の『ショーロス第1番』(Choros No.1)を作曲。
1922年、11月、サンパウロで開催された現代モダンアート芸術祭に参加。
そこで管弦楽作品を発表しますが、彼の仲間の努力もむなしく、集まった聴衆も少なく、
また作品への評価も芳しくありませんでした。
そんな折、エイトールが申請していた政府の補助金が、議会での約1年もの長い審議の末に許諾され、
この補助金の目的とする『ヨーロッパにおいて自国の音楽を発表する演奏会開催』という絶好の機会が訪れます。
パリの楽壇は、ヨーロッパの精錬されたアカデミックな音楽とは違い、大胆で力強く、
新大陸の息吹を感じさせる彼の曲を高く評価し、以降、エイトールの国際的な活動が始まります。
36歳にしてパリに到着したエイトールは最初から強気だったようで、
周囲の人やマスコミに注目されるたびに面白い答えを残しています。
Q.ヨーロッパ音楽の勉強に来たのですか?
A.いいや、違う。私のやり方を見せに来たのだ。
Q.フォルクローレとは何ですか?(某ジャーナリスト)
A.フォルクローレ・・・、それは私だ。
~と、彼はルイ14世さながらに答えていた。
(フランスの批評家、音楽家のベルナール・ガヴォティの手記)
1924年、パリで、当時31歳だったアンドレス・セゴビアと出会い、ギターへの愛情という共通項を通し、
長い友情を結びました。(以下、初めての出会いを語るセゴビアの言葉)
エイトール・ヴィラ=ロボスの頭には、黒いモジャモジャの髪がジャングルのように生えていました。
目はまるでイノシシのように輝いていましたが、その眼差しは、あたたかく、優しさ、親しみといったものをたたえていました。
私が一曲、弾き終わると、彼は、私のそばへやって来て、
「貴方の為に作曲しましょう、実は私もギターを弾くんです」と言いました。
私がギターを渡すと、彼は物凄い勢いで和音をかき鳴らし弦がはじけ飛んだかと思いました。
私はすぐにギターを取り戻しましたが、彼は少しも怒らず、大声で笑いだしました。
その笑い声が、2人の友情の始まりになったのです。
(アンドレス・セゴビアとエイトール)
セゴビアは、彼の作曲した『12の練習曲』(1928)について、作曲後、
24年もの長い年月を経て出版された楽譜集の前書きで「~両手のテクニックを進歩させるための驚くべき実効性に富み、
同時に純粋な音楽美、演奏会用作品としての不朽の価値を含む作品~」と絶賛しています。
ブラジルの子供達のために
1889年、共和制樹立
1894年、最初の文民大統領プルデンテ・デ・モライス就任。
1906年、第3回パン・アメリカン会議、リオデジャネイロで開催。
1917年、ブラジル、第一次世界大戦参戦。
1930年、リオグランデ・ド・スル州知事ヴァルガス、政権奪取。
1932年、サンパウロ州、ヴァルガス政権に対して反乱。(護憲革命)
1934年、新憲法公布、新国家(エスタード・ノーヴォ)宣言。
1942年、ブラジル、第二次世界大戦に参戦。
1945年、ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領辞任。
1946年、新憲法公布。
1950年、初の民主的選挙によりヴァルガス大統領に再選
1954年、ヴァルガス大統領自殺。
1960年、ジュセリーノ・クビチェック大統領、ブラジリア遷都。
1964年、軍事クーデター、軍事政権樹立。
1925年、パリで鮮烈なデビューをかざり、楽壇に認められたエイトールは、主に活動の拠点をパリに置きながら、
時折、ブラジルにも帰り、リオデジャネイロ、サンパウロ、ブエノスアイレス、モンテビデオなど、国内外各地で演奏会を開催。
1927年、アルゼンチンとウルグアイから招待されて演奏旅行をおこなったり、またパリに戻って、
約3年の歳月をかけ、ギターの為の『12の練習曲』を作曲。
1930年、ブラジルで革命が起きたこの年、ある決意のもとブラジルに帰国。
それは政府と共に民衆の為の音楽運動の道を模索しはじめ、具体的には、まず、ブラジル全土の学校における音楽教育のありかた、
音楽の授業を導入するプロジェクトに取り組むようになります。
1931年、彼は幾人かの音楽家と共に、サンパウロ州の54ヵ所の村を訪問。
その地に伝わる民謡を集めてまわったとされています。
1932年頃、ブラジル教育大学の女学生アルミンダ・ネヴェス・ジ・アルメイダ(Arminda Neves de Almeida 1912-1985)は、
自身の音楽教育関連の論文をエイトールに見てもらうことになり、その後、アルメイダは楽譜の清書を行うなどの協力関係に進展します。
1932年~1945年、創設されたばかりの音楽芸術教育庁長官に就任。
(エイトールとアルメイダ)
リオデジャネイロにおいて学校の中にコーラスの授業が義務教育として試験的に導入され、
エイトールは学校で使用されるコーラスの為の教材を作りあげます。
その後、ブラジルの豊かな歴史や文化に根付いた音楽教育の完全なシステムを発想し、子供の為の音楽教育に力を注ぎ、
数百人のオーケストラと全国から集まった4万人もの児童からなる合唱団を指揮して注目を浴びます。
1936年5月、ベルリンからルシリアに離縁の手紙を出しますが、
当時のブラジルの法律では離婚は原則認められていなかった為、アルメイダは内縁の妻となります。
1936年、プラハ、ウィーン、ベルリンにて開催される「音楽教育議会」に参加。
1940年、ギターの為の『5つの前奏曲』を作曲。
1942年、「国立合唱音楽院」を開校。音楽教師のための指導用楽譜集として全6巻から成る『指導の手引き』 (Guia prático)作成を計画。
1943年、アメリカのニューヨーク大学より名誉博士号を授与。
1944年11月、初めてのアメリカでの演奏旅行。ニューヨーク・フィルハーモニー、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団を指揮。
1945年、ハリウッド映画の為に作曲。
この時期から晩年までの彼の活動は多岐に渡っており、アメリカ大陸とヨーロッパを演奏旅行したり、またイスラエルにも旅しています。
また多くの財団や政府、そしてバチカン市国からも作曲依頼を受けるなど、多忙な毎日を送ります。
アメリカにおいては、渡米する以前からニューヨーク大学から名誉博士号を受けているほど有名なエイトールでしたが、
彼が広くアメリカの一般市民の間に親しまれたものには『緑の館』(Green Mansions 1959)という映画があり、
彼は劇中曲の一部を担当しています。
(オードリー・ヘプバーンと)
1959年7月、リオデジャネイロの病院に入院。ブラジル大統領クビチェックが見舞いに訪れる。
1959年9月、退院。以降は自宅で療養を続けながら、
1959年11月17日、妻アルメイダらに看取られ72才で亡くなりました。