エイトールとロシアバレー団

1913年、エイトールが結婚した年、当時、ヨーロッパにおいて確固たる地位を築いていた、 セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)率いるロシアバレー団が、 ブラジルのリオに訪れています。また、当時のトップダンサーは、後年、バレーダンスの歴史に名を残す天才振付師、 ヴァーツラフ・ニジンスキー(Vaslav Fomich Nijinsky 1890-1950)でした。


(セルゲイ・ディアギレフ)

このリオ公演で上演した演目は、ボロディンの「イーゴリ公」、リムスキー・コルサコフの「シェヘラサード」、 ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」など。この時エイトールは、この公演のオーケストラの一員として参加しており、 少なからず、このバレー団から影響を受けたことでしょう。


(ヴァーツラフ・ニジンスキー)

結婚はしたものの、エイトールの生活にはほとんど変化はなく、経済的には恵まれていない状況が続いていました。 カフェや劇場の演奏だけでは食べていけず、彼はチェロのレッスンで収入を得ようとしますが、 もともと忍耐力の欠如している彼にとって、不器用な生徒を相手にして教え続けるという作業は容易なものではなく、 結局、長続きはしなかったようです。

1915年1月29日、リオから汽車で4時間ほどの山間の街、ノバ・フリブルゴ(Nova Friburgo)にてリサイタル。 この演奏会は、この地において3回開かれ、彼自身と妻ルシリアと共演。この機会の為に書き下ろした新作も演奏され、 リハーサルも入念におこなった結果、会は成功をおさめます。この成功で自信を持った彼は『チェロ協奏曲』を作曲。

同年、自身の歌曲とピアノ曲のみで構成された演奏会を企画しますが、批評家達の評価は定まらず、 「特別な才能を持ってはいるが、音楽教育の欠如が感じられる」という評価が一般的で、 中には「やかましいだけ」という酷評までされています。 しかし彼は、そんな批評を信じることなく従来の型にはまらないような曲を書こうと決心します。

1916年、『交響曲第1番』を作曲。この時、 楽譜に関する注釈として~Villa-lobos20歳の時に書いた芸術家の魂そして宿命~という文章が添えられていますが、 以降、彼は自身の作品に、この種の「注釈」を入れることが度々見られるようになります。 この時期にあっても、彼の収入は映画館での仕事が中心でしたが、唯一、彼の生活が変わったことと言えば、 仕事が終わった後、遊びにも行かず、毎夜、音楽理論書を読みふける日々が続くようになったことでした。

1917年、30歳の頃、『神秘的6重奏曲』を作曲。フルート、オーボエ、アルトサックス、ギター、ハープ、チェレスタという、 ヨーロッパの伝統的編成には見られない個性的編成の為に書かれたこの曲は、 ドビュッシーを代表とする印象派の影響を感じられる名曲となっています。
1917年11月、3度目の彼の作品のみのコンサートが開かれ、「全く独自の、人目をひく効果をもたらした」という批評を得て、 これに勇気付けられた彼は、ピアノ曲集『単純な選集』(Simples Coletanea)の作曲に着手し始めます。(1919年に完成)

この様に音楽的基礎教育が欠如しているせいで必要以上の苦労を強いられるエイトールでしたが、 この翌年の1918年、重大な転機を与える偉大なる人物との出会いが待っていました。


ルービンシュタインとの出会い

アルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein 1887-1982)は、 現代ピアノ演奏の歴史に大きな足跡を残した20世紀最大のピアニスト。偶然ですがエイトールと彼は同い年です。

1887年、ポーランドのウージに生まれます。
1899年、12才、ポツダムでデビュー成功。以後各地で演奏活動を開始、
1906年、ニューヨーク・デビュー。
1939年、アメリカ滞在中、第2次世界大戦が始まり、そのままアメリカに滞在。
1946年、戦後、アメリカ合衆国市民権を取得。以後ニューヨークとパリに住居を構え、 ヨーロッパとアメリカの両大陸で精力的な演奏活動を展開し続けました。



1918年、エイトールにとって運命的な出会い、それは、当時、 新進気鋭の天才ピアニストとして活躍していたルービンシュタインとの出会いでした。 ルービンシュタインは彼の自伝の中でエイトールとの出会いを以下の様に回想しています。

楽院の学生であり、私の信奉者でもある2人の若い音楽家が、
私に、『ある不思議な作曲家』の話をしてくれた・・・。
「天才です。」
「教師の干渉や批評を全てはねつけ、音楽院から2回、退学になっています。」
「決められた音楽教科を一切信用しないのです。彼は、自分自身の創造力だけを信じ、何ものにも頼らない人間だと思います」
この人物評が、私の好奇心をかき立てた・・・。

「実は、お話しするのも恥ずかしいことなのですが、 彼は生計を立てる為に仲間と共にアヴェニダ・リオ・ブランコ通りの映画館でチェロを弾いています・・・」
そして私は彼に会う為に映画館に足を運んでみた。
彼は、浅黒い肌を持ち、綺麗に剃った顔、黒いモジャモジャの髪、哀愁の漂う大きな眼をした小柄な男だったが、 その手は目立って魅力的で美しく、感受性と生命力を感じさせた。

私は、今、聴いた作品に大いに興味を惹かれたことを彼に伝え、
「ピアノ曲は書いているの?」と丁寧に尋ねた。すると、にわかに彼の態度が乱暴になり、
「作曲家はピアニストなんか相手にできない。成功と金ばかりに目がくらんだ連中だからね!」
と言ったのだ。私は、この言葉にカッ!となり、背を向けてそこを出た。
しかし、2人の友人達が私を追ってきた。
「怒らないで下さい・・・」と彼らは懇願する。
「貴方の前で、くだらない映画音楽を演奏したことに彼は傷ついているんです・・・」

数日後の朝早く、私が蚊帳の中で寝ていると誰かがドアを叩いた・・・。
驚いたことに、10人ばかりの人達が手に手に楽器を抱えて立っていた。
一人はエイトールで、フランス語とポルトガル語を混ぜながら、 私の求めに応じて自分の作品を聴かせるために来たと懸命に説明した。

彼らは弦楽四重奏を演奏してくれたが、その楽器の扱い方は斬新で音楽に独得で新鮮な響きを与えていた。 その後、演奏されたフルートとクラリネットのための《ショーロス》と呼ばれる小品に私はひたすら魅了されてしまった。 私は自分が重要な主張を持つ偉大な作曲家を前にしていると確信した。


(ルービンシュタインとミルハード 1918)

※L.Peppercornの記述では、エイトールのことを最初にルービンシュタインに話したのは、 エルネスト・アンセルメ(Ernest Ansermet)という人物で、 彼を映画館まで連れて行ったのは、ダリウス・ミルハード(Darius Milhaud)とされています。

この様な出会いがあった後、意気投合した2人でしたが、エイトールは、早速、 彼の為に全8曲からなるピアノ曲『赤ちゃんの家族』(A Prole de Bebe)を作曲して届け、 ルービンシュタインはリサイタルの最終公演日のアンコールに、この中から1曲を演奏しましたが、 この日の聴衆には野次り飛ばされて終わったそうです。 しかしそれから4年後、再びリサイタルで取り上げた時には大成功をおさめ、前回、酷評した批評家達が「賞賛をおくる」と評したのは、 このルービンシュタインの名声のおかげと言えるでしょう。



いずれにせよ、エイトールの名前が内外に知られるようになったのは、ルービンシュタインによるところが大きく、 その彼に対する感謝と敬意を込め、『野生の詩』(Rudepoêma)を作っています。 その楽譜の扉には『我が真実の友よ、この『野生の詩』のうちに、君の魂をすっかり描きえたかどうか僕には分からない。 しかし心から誓って言えるのは、僕の精神の内に君の気質が刻印されており、僕はそれをただ忠実な小型カメラのように、 機械的に紙の上へ映し取っていった気がする~ということだ。 したがって、もし僕がここで成功していたとしても、この作品の真の作者は、あくまでも君なのだ』と記されています。